イエスが言われたことを、そのまま実行したことが、その人がイエスを信じていたということのエビデンス(証拠)になるのです。
とある日本人牧師が言っているようなこと、「信じているならば行いは関係がない」と言うような理屈は、神の前で通用するでしょうか?
信じていたかどうかは、その人の果実、つまり行動で判断されるのです。
実がなっていない木は切り倒されます。
つまり、行動が伴わなければ、神から滅ぼされる可能性があります。
人は誰でも死後に裁き(裁判)を受けると、聖書に書いてあるではありませんか。
人は各々、その行いに応じて裁かれる、と聖書には、はっきりと書かれているのです。
信仰があれば、それでいいと言う人がいますが、イエスが神の子であることは、悪霊どもでさえ信じているのです。
ですから、気をつけてください。
イエスの戒めを行わないクリスチャンは、滅びる可能性があります。
滅びるとは、永遠の地獄が、その人の住まいになるということを意味します。
最後の審判の場面では、全人類が神の前で羊かヤギかに分けられます。どんな基準で裁かれると書いてあるでしょうか。
イエスに対して、憐れみをかけた人が、イエスから憐れみを受けることが描かれているではありませんか。
もう一度、繰り返します。
あなた方の立派な行いを見て、と聖書に書いてあります。ならば、立派な行いが伴わないなら、他の何があなたがたをクリスチャンであると人々に知らしめることができますか?
私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真理とをもって愛そうではありませんか。(ヨハネの手紙第一3:18)