救いと血とイエス・キリスト

一人でも多くの人がイエスを信じて救われますように

最後の一コドラント

死んだ後には、地獄か天国しか行く場所はない、と主張するクリスチャンは大勢います。彼らは、聖書にはそのように書かれている、と主張します。

では、次のイエスの言葉にある「獄」とはどこのことですか?

最後の一コドラントを支払い終えたら出てこられる「獄」とはどこのことですか?

 

   あなたを訴える者と一緒に道を行く時には、その途中で早く仲直りをしなさい。そうしないと、その訴える者はあなたを裁判官にわたし、裁判官は下役にわたし、そして、あなたは獄に入れられるであろう。
  よくあなたに言っておく。最後の一コドラントを支払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない。(マタイによる福音書:5章: 25~26節)

 

イエスよ。あなたの御国においでになるときには、わたしを思いだしてください

ルカ福音書における、この部分の意味は、ユダヤ人以外には非常にわかりずらいので解説いたします。

そして、「イエスよ。あなたの御国においでになるときには、わたしを思いだしてください」と言った。
するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカ福音書23:42~43)

 

エスと共に十字架につけられたこの男はユダヤ人の政治犯であるといわれる。ローマに反逆を企てた者をみせしめにするための刑が十字架刑だからだ。

つまり、他のユダヤ人たちよりも、よりいっそう王国を待ち望む気持ちが強かった人のはずだ。この男は、自身の発言からわかるようにイエスを王であると認めている。

 

あなたの御国においでになるときには = あなたを迎える地上の王国に再臨されるときには

 

わたしを思い出してください = わたしを御国のメンバーにしてください

 

この男はイエスの再臨を信じているし、イエスが王であることも信じていた。

そして自分が復活するであろうことも信じている。

この男の発言に対するイエスの回答が興味深い。

 

再臨のときではなく、「あなたは 今日 わたしと一緒に楽園にいる」と言われました。

この時間のコントラストが非常に面白いのですが、遠い未来の話ではなく、まさに今日、一緒にいることになるというのがイエスの答えでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

弁護者である方 聖霊

わたしたちが裁判の場に立たされたとき、頼れるのは弁護者だ。弁護者がいなければ、裁判に勝つことは難しい。
被告であるわたしたちを訴える者はサタン。彼は被告を有罪に追い込む為の様々な証拠(エビデンス)を持っている。私たちの人生の記録を持っているのだ。

私たちを弁護してくださる方は聖霊
この方も私たちの人生の記録を持っておられる。
しかし、ほとんどの人は聖霊の存在を感じておらず、聖霊に祈ることもしないし、聖霊を神に求めることもしない。

もちろん被告の大多数はサタンの存在も信じていないから、自分が裁判にかけられるなどとは思ってもいないのだろう。
しかし、聖書は死後に裁きがあることを教えてくれている。

 

裁判において重要なこととして、申命記17章には「ひとりの証言で死刑にしてはならない」という律法があります。

そして、訴える側も弁護する側にも最低2名の証言者が必要とされています。

マタイ18章には、「ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。」と書かれています。

 

エス聖霊について「もう1人の弁護者」、「別の弁護者」と紹介しています。
つまり、わたしたちには聖霊以外にも弁護者がいることを示唆しています。

もう1人の弁護者は、以下のヨハネ第一の手紙によればイエス・キリストです。

 

わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。 この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。(ヨハネの手紙一 2:1-2 新共同訳)

このようにして二人の弁護者により、わたしたちは裁判に勝つことが出来るのでしょう。

三位一体とはありがたいことです。

この世は天国に近い -地獄に休息はない故に-

この世は酷い世界だと多くの人が嘆いています。僕もその一人でした。

それで、僕は神に祈って、こう尋ねました。

「この世は天国と地獄と、どちらに近いのですか?」すると、その答えは僕の予想に反したものでした。

『天国に近い。休息があるということのゆえ。』

 

あくまで個人的な体験ですので、どこかの教会の教義とかではないのです。

実際、僕も地獄に休息がないなどということは、そのときまで考えたこともなかったのです。

自分の喜びや夢を追求すること 自己実現について

自分の喜びや夢を追求することは、間違った目標であると思います。

しかし、一般的には少しも間違っていないどころか、自分の夢を追求することは素晴らしいことであるとされています。

 

人がこの世界で生きられる期間は、せいぜい数十年間のことです。その数十年の間、たとえばお金持ちになって贅沢三昧をしたとしても、結局この人生が終わると別の世界に入るのです。

 

この世界で人がおこなうべきことは、神を怖れること、神に栄光を帰すること、イエス・キリストがわたしたちの罪のために死んでくださったおかげで、わたしたちは救われたと信じること。悔い改めてイエスの戒め、神の戒めを守って生きていくこと。

これくらいです。

 

 多くの現代人は、たった数十年のこの世の生活がすべてだと思い違いをしています。

実際には、この人生において重要なこととは神との親しい関係を築くことであって、自己実現だとか業績を残すことではありません。もちろん、お金を儲けることでもなければ、恋愛という呼び名でセックスしまくることでもありません。

それどころか、それらのこと(自己中心的な喜び)はむしろ避けるべき事柄です。

 

うっかりすると、救われるべき人でさえ「人生において重要なことは自己実現である」というような一見美しいデマにひっかかって人生の時間を無為に過ごすことになりかねないですから、注意が必要です。

 

自分の喜びだとか、レジャーだとか、あるいは自分の夢の実現だとか、そんなことのために人は生きているわけではありません。あの三島由紀夫もインタビューでそんなことを言っていたようです。ただし三島は大義を武士道に見出していたようですが。

 


大義のために死す 三島由紀夫

 

仏教を信じてはいけない理由 その2

仏教が説くような『極楽』というものはありません。

『お念仏を何万回唱えれば極楽へ行ける』というようなことを仏教徒が真に受けているのを見て、サタンはだまされやすい人間をあざ笑っていると思います。

 

人はアダムの子孫であり、生まれながらにアダムの犯した罪を引き継いでいるのです。

アダムの犯した罪とは、自分自身が神のようになる(自分の主が自分になっている)意識のことです。

あたり前のように、誰もがこの罪を犯しているのです。

 

従って、人は誰もが地獄がふさわしいということになります。

人間的な尺度で、他の人たちよりも自分は善人だから天国に入れるだろう、などと考えることは間違っています。

 

どんなに立派な人でも、どんなにきちんとした生活をしてきた人であっても、神を認めず、神を自分の主とせず、自分の考えで生きて一生を終えるのなら、地獄がふさわしいのです。

 

天国に入るための唯一の道は、イエス・キリストです。

 

エスは、人の罪の代価を自らが十字架に架けられて死ぬことで支払われました。

エスがわたしの借金の肩代わりをしてくれたようなものだと考えると理解しやすいかもしれません。この罪と呼ばれる借金の代価は死なのです。

わたしたちはイエスが私たちの代わりに罪の報いである死を引き受けてくださったことを公に信じるだけで救われるのです。神はなんと気前が良いお方なのでしょうか。

 

そもそも罪の値を自力で返済することは不可能なのです。死ぬしかないからです。

従って、イエスが十字架において流された血による救いを信じる以外に、私たちが天国に入れる方法はありません。言い方を変えると、これ以外に、私たちが地獄の刑罰から逃れる方法はないのです。

 

神からの特別な計らいにより、滅びから救われる方法を人類に与えてくださった、提示してくださった。これがイエスの十字架と復活です。

 

死んだ人が3日目に蘇った、という前代未聞の奇跡が、このことを証しています。

仏陀だって、普通に死んだのですよ。

 

エスの十字架により、私たちが救われたことを信じ、なおかつイエスの戒めを守って生きていくことが重要なことです。

 

神を怖れることは知恵の初めなのです。

人は、体も魂も地獄で滅ぼすことがお出来になる神こそ怖れるべきです。

 

仏教を信じてはいけない理由 その1

仏教の教えには、『天地創造の神』『全能の神』『人間を創造した神』が不在です。

つまり、仏教は無神論なのです。

 

全能永遠の神を信じないのですから、仏教を信じている人は地獄へ行くことになるのです。

 

以前、仏教を信じている方から反論を受けたことがあります。

仏教には梵天という神がいるのだと、その人は言っていました。

 

しかし、梵天という神は天地を創造したこともなければ、人間を創造したこともない神であって、聖書的な見方からすると、これは堕天使であり悪魔ということになります。

興味のある人は梵天について詳しく調べてみてください。

 

 

仏教を信じてはいけない理由

・天地万物創造の神を信じていないこと

 

以上です。

もし身近に熱心な仏教徒がいたなら、この事実を伝えて、教会へ行くか聖書を読むように言ってあげてください。

仏教を信じている人は、ほぼ必ずと言っていいほど地獄へ落ちるからです。

 

お寺で仏像に向かってお辞儀をして拝み、お賽銭まであげるような行為は、自分自身をサタンより下の権威に置くことになり、サタンに自らの支配権を預けるような行為になります。ですから、絶対にしてはならないことであり、もしそうしたことをしたのであれば、神に対して悔い改めの祈りをする必要があります。

 

加えて、仏教が説くような『善人が行く極楽』というものはありません。極楽というものは想像の産物であって、イエスを受け入れた人が入れる天国ならありますが、極楽というものは存在しないのです。

このことについては、以下のページでご確認ください。

daniele777.hatenablog.com